ロハーディ・ムルック*
宮川良夫(訳)**
抄 録 インドネシアの現在および将来の経済的・商業的指標は、日本にとってインドネシアがビジネス的に避けて通れない国であることを示している。しかし、特許などの知財分野でみると、インドネシアの重要性は低く見積もられているようだ。そのアンバランスを是正するべく、インドネシアの市場としての成長状況、競争状況などを、他のASEAN諸国や中国、インドなどと比較しながら日本企業からの視点で解説する。さらにそれを踏まえ、インドネシアという市場において日本企業のとるべき特許戦略(出願および権利行使上の戦略)と注意点について考察する。日本企業はインドネシアでもっと特許をとるべきである。インドネシアにおける特許出願費用は、市場の喪失や信用の失墜による経済的損失に比べれば安いものだ。日本企業が、世界の中で重要な位置を占めるインドネシアで、特許を有効活用し市場競争に勝利していくことに期待したい。
目 次
1. はじめに
2. インドネシアという国
3. 市場のポテンシャル
4. 経済的・ビジネス的見地
5. 不十分な発明保護とそのリスク
6. 日本企業の特許と競争相手
7. ホンダ対中国製モーターバイク
8. まとめ
1. はじめに
世界の経済・ビジネス指標をみると、中国、インド、ブラジルなどとともに目立つ位置にインドネシアが常に出ているのがわかる。ところが、特許などの知財分野でみると、インドネシアは下位に置かれているのだ。経済指標と知財 との間に相関関係がないように見える。なぜだろう?
国際的に発明の保護を求める特許出願人の多くにとって、どの国で特許をとるのか、は常に難しい問だ。企業にとって特許の価値は日々変化し、決して価値は1つではない。それは、その企業の戦略をベースに、発明毎に変わってくるし、出願対象国によっても変わってくる。もしそれがビジネスの世界戦略なのであれば、日本企業はターゲット国において特許出願の可否を何に基づき判断しているのだろう?日本企業はインドネシアでの特許の価値を低く見積もり過ぎているのではないだろうか?
*Chapter One-IP代表 インドネシア弁理士
Rohaldy MULUK
**United GIPs代表 日本弁理士
Yoshio MIYAGAWA
この稿では、まずインドネシアのビジネス要素に焦点を当てる。市場のポテンシャル、競争状況、経済の成長状況などを、他のASEAN諸国や中国、インドなどと比較しながら、日本企業の視点での解説を試みる。さらにそれを踏まえ、インドネシアという市場において日本企業のとるべき特許戦略(出願および権利行使上の戦略)と注意点について考察する。
2.インドネシアという国
インドネシアは巨大な国だ。時間帯だけでみても3つある。北米大陸と比較すると、ほぼその西海岸から東海岸までと同じサイズである。ヨーロッパでみると、イギリスを西端とした場合、その東端はロシアのウラル山脈まで達する。人口は約2億4千万人。世界で4番目に人口の多い国だ。
一般に知られた多くの世界的指標によれば、インドネシアは天然資源が豊富で、若くて技術力もある労働力が豊富で、巨大かつ成長する市場が存在し、政治的には安定している発展途上の国である。インドネシアは、そのように世界的に目立つ国であり、アジアの中におけるパワーハウスの一つとして注目されつつある。
3.市場のポテンシャル
一般に、企業がある国において自己の発明品を販売したり製造したりしようとする場合には、その国でその発明が保護されることを望む。しかしその前に、その企業ではどの国に参入するのかを決断しなければならない。したがって、ある国に特許出願をすることを決める前に、その国の市場の情報を得ることは企業にとって重要なこととなる。
ここで、インドネシアという市場のポテンシャルを知るため、米国のミシガン州立大学が発表した指標“Market Potential Index (MPI) for Emerging Markets - 2010”1)をみてみよう。
この表にあるように、インドネシアは総合成績で世界第12位、ASEANの中では第2位だ。市場規模は、中国、インド、ロシア、ブラジルに次いで世界第5位、ASEANの中では第1位である。市場成長率では、中国、インド、パキスタンに次いで世界第4位、ASEANの中では第1位になっている。市場消費容量(Market Consumption Capacity)は、中国、インドよりも大きく、世界第10位で、ASEANの中ではマレーシアに次いで第2位である。また、市場インフラに関しては世界第20位で、中国、インドを上回っている。
インドネシア人の約50%は年齢が29歳以下であり、また約50%が都市部に住んで近代的な生活を営んでいる。インドネシアの若者層はダイナミックな労働市場を構成しており、毎年約230万人ずつ増えている。労働コストは、次図に示すように、近隣の競争国より相対的に低い。2)
約2億4千万人の人口を持つインドネシアは、巨大な国内市場を有しており、アジアでは最も内需経済の大きい国の一つだ。近代化した中流層が、個人消費が約70%を占めるインドネシアのGDPを支えている。3)
4.経済的・ビジネス的見地
特許活動は未来に向けた長期視野に立つものであり、特許出願をすることは企業のグローバル戦略の一部となる。したがって、国の将来を示す経済上・ビジネス上の指標は知財戦略の決定に重要である。
インドネシアのように発展する市場では、先進国市場ではすでに当然となっているハイテク製品の成長がこれからますます高まっていくものと思われる。来る10年間において、7つの新興 国(インドネシア、中国、インド、ブラジル、メキシコ、ロシア、トルコ)の経済が、世界の総GDPの45%を占めることが予想されている。4)
マッキンゼー・グローバル・サーベイによると、5)世界市場の形を変える5つの要素が以下のように存在する。
(i) 新興市場の成長、
(ii) 労働効率と才能マネージメント、
(iii) 世界規模の製品、情報、資本の流通、
(iv) 天然資源のマネージメント、
(v) 政府の役割の増大
上記5つの要素に基づいてインドネシアの経済指標をみてみよう。
(i)インドネシアの成長
インドネシアは、世界の多くの国々に比べて2008年の世界的な金融危機の影響をほとんど受けなかった。Standard Chartered Global Researchによれば、6)2011年-2014年の期間のインドネシアの経済成長率は7.1-7.6%の範囲であろうと予想されている。インドネシアの今後の経済拡大はより包括的であると見込まれており、一人当たりの名目GDPの4倍の成長が2020年までに見込まれている。また、その見込みを実現するなら、2016年までに韓国経済を抜き、2024年までに日本経済を抜き去って、2040年までにインドネシアはG-7の仲間入りをすると期待されている。
インドネシアの中流階級は成長し続けている。Financial Timesによれば、7)来る10年間に、インドネシアでは6千万人が中流階級に入るようになる。この予測に従えば、インドネシアは、中国とインドに続く最も成長率の高い消費市場になる。
インドネシアの労働効率と才能マネージメントGlobal Competitiveness Index 2010-20118)によると、インドネシアの2010年の競争力は世界第44位であった。ちなみに、ブラジルは第58位、ロシアは第63位、インドは第51位、中国は第27。
インドネシア政府は、国家予算の16%を教育に費やしている。大卒の現在のマジョリティは、産業直結分野(金融・経済28%、科学・技術27.5%)での教育を受けた状態となっている。9)
(ii) インドネシアの商品、情報、資本の世界的流動性
地理的に、インドネシアはたいへん戦略的な位置にある。インド洋と太平洋の間にあってマラッカ海峡に沿っているからだ。世界の半分以上の海洋運輸がインドネシア海域を通過している。10)
Boston Consulting Group Incによれば、11)インドネシアでは2015年までにインターネットユーザーが倍増すると予想されている。携帯電話ユーザーは、2億4千万人の66%に達しており、中国、インドと共にインドネシアはテレコミュニケーション収益における最良の見通しを持っている。
インドネシアのGDPは、世界銀行の2009年GDPランキング12)で世界第18位であった。インドネシアの対外赤字は2010年末でGDP比28.1%であり、これはASEANの中で最も低く、世界の発展途上国のほとんどよりも相当に低い。
(iii) インドネシアの天然資源
インドネシアは、世界でまれな程度に天然資源の豊富な国である。たとえば、インドネシアは、世界の40%の地熱資源をもっており、世界第3位の天然ガス輸出国であり、世界第2位の石炭、カカオ、錫の輸出国であり、ヤシ油については世界一の輸出国だ。赤道直下に位置するインドネシアは、ブラジルに次ぐ生物多様性を持つ国でもある。13)
(iv) インドネシアの政府
国際関係において、インドネシアはその役割の重要性を増しており、東南アジア諸国の中で唯一のG-20のメンバーである。インドネシアはASEANの中でリーダー的役割を果たし、2015年に予定されているASEAN経済共同体のまとめ役となる。14)インドネシア政府は、経済成長、対外赤字のGDP比減少、労働機会の増大、投資条件の改善、経済的安定性を実現し、世界に対するさらなる貢献を目指している。
5. 不十分な発明保護とそのリスク
特許は属地性を持ち、特許出願は各国あるいは地域において別々に審査される。権利範囲や進歩性の基準は国ごとに異なる。したがって、特許権侵害は(直接であれ間接であれ)、特許権が存在している国でのみ生じる。そして、ほとんどの場合には、特許出願がなされた国においてのみ権利行使が可能である。
インドネシア特許法によれば、物の発明にあっては、その特許発明にかかる物を生産、使用、譲渡、輸入、リース、輸送または譲渡、リースもしくは輸送のために準備した場合には、特許権侵害となる。また方法の発明にあっては、その特許発明にかかる方法を使用したり、その方法によって製造した場合には特許権侵害となる。
特許法の属地主義の原則は、発明保護において広範囲に適用されている。特許出願はグローバルビジネス戦略の一部であり、1つの国における保護だけではたいていの場合には保護は十分ではない。したがって、特許権者のビジネスや経済に悪影響を及ぼす可能性を包括的に分析することは、特許取得を考える国や地域の選別において極めて重要だ。
発明の保護を求める国や地域を選択する主たる目的は、その場所で他者から経済的なダメージを与えられることを特許権者が避けるためである。このため、市場のポテンシャルなど、経済上・ビジネス上の指標以外の見方も注意深くかつ包括的に検討されるべきだ。たとえば次のようなことが考えられる。
・ある国における特許権侵害が、当該発明の保護手段が無い国においてどのように影響するのか、
・当該発明が保護されていない国において他者が利益を奪うことで生じるビジネスの喪失に対して出願しないことがどのように影響するのか、
・模倣品がビジネスにどのように影響するのか。
どの国に出願するかに関する包括的な考察無しに特許出願をすると、それは不完全な特許保護という結果をもたらすであろう。
次のシナリオは、インドネシアの特許法に関する権利侵害なしにインドネシアで起こり得る。
ケース1:インドネシア外で侵害品が製造され、インドネシアに輸入されて販売される場合。
ケース2:インドネシア外で特許侵害になる方法で製品が製造され、インドネシアに輸入されて販売される場合。
ケース3:インドネシア以外の国で発行された特許権を侵害する製品をインドネシア内で製造する場合。
これらいずれのケースでも、当該製品や方法にかかる特許権がインドネシア内に存在しなければ、インドネシアでは特許権侵害は成立しない。
上記すべてのケースで、インドネシア市場において企業はダメージを受ける。また同時に、このことは、特許を取るべき国の選択において総合的な考察が必要であることを示している。
模倣品製造ビジネスを分析すれば、知的財産権(たとえば、特許権)の侵害が権利者のビジネスに国際的にインパクトを与える理由が理解できる。模倣品製造ビジネスは普通、国境を越えるインターナショナルなビジネスだからだ。
以下に、インドネシアの例をみてみよう。
事実1:
OECDの調査15)によると、東アジアにおいて、インドネシアは重大な模倣品輸出国ではない。インドネシアの模倣度指標(GTRIC-e Index)は比較的低く、ASEANの中で低い方から2番目であり、東アジアにおいては最も低い国の一つである。韓国より低く、中国よりはるかに低い。
事実2:
インドネシア大学およびインドネシア反模倣品協会の2010年の報告16)によると、インドネシアは模倣品で溢れ返っている。その損失はあらゆる経済セクターにわたっており、約40億米ドル/年と推定されている。さらに同報告は、模倣が理由で過去8年間において174,000人分の仕事が失われたと推定している。正当な企業が模倣品に競争で勝てなかったからである。たとえば、化粧品やシャンプーといったものは国内で製造されているが、医薬品や電子製品は一般に違法状態で輸入されている。ほとんどは中国から来る。
上記事実からわかることは第1に、インドネシアは東アジアにあって模倣品輸出に大きく貢献はしておらず、逆に、高い模倣度指標(GTRIC-e Index)値を示す国(すなわち模倣品輸出国)に囲まれている。
第2に、インドネシア国内で模倣品が大量に販売されており、その多くは中国から来る。
インドネシア外での特許権侵害と、インドネシアでの無出願と、インドネシア内での模倣品ビジネスとのコンビネーションが、インドネシアと中国との間に存在する。日本企業の特許出願アンバランス(中国に対してインドネシアは約40分の1)とあいまって、これが日本企業にとっての悩ましい状況をインドネシアで作っていることになる。
したがって、日本企業にとっては、インドネシアでも中国に比肩する程度の発明保護活動が緊急かつ必要な課題であると考えられる。知財の保護を十分に行える体制をとらなければ、インドネシアにおいて日本企業は自己のビジネスの機会の消失を防ぐ重要な手段を持っていないことになるのだ。
上記結論に従えば、インドネシアの外で特許権侵害が発生していると思われる場合には、インドネシア内でも特許権侵害が発生している可能性があることになる。しかし、中国内での特許権侵害行為であっても、インドネシアでも同様に特許を取得していないならインドネシア内での特許権侵害はないことになる。
模倣品ビジネスは、知的財産権、たとえば特許がその国に存在している限り制限される。「ノー・パテント、ノー・プロテクション」というモットーがあるように、特許権は、その特許が発行された国内でのみ有効である。たとえば、日本企業の中国特許権による保護は、中国内でのみ有効だ。
一方、模倣品ビジネスは国境を越えるビジネスであり、したがって特許権侵害は全地球的規模のインパクトがある。ある企業が、たとえば中国内で、日本企業が持つ特許にかかる製品を違法に製造することで特許権侵害を行っている場合には、その企業は中国内では当該製品を売ろうとはしないだろう。おそらく、インドネシア等の中国以外の国で製品を販売しようとするだろう。一度中国での保護の網から製品が抜け出してしまえば、たとえばインドネシアに輸入されてしまえば、中国を出た製品をストップさせられるのはインドネシア内で有効な法律(たとえば特許法)以外にはない。
6. 日本企業の特許と競争相手
ビジネス上の競争は特許に関連している。ある国により多くの特許出願をすればするほど、その国での関連ビジネス領域における出願人の立場は強くなる。
仮に、現段階で競争が無いとしたら、特許権の存続期間が20年ありその20年に何が起こるのかを誰も予測不可能であるので、企業によっては発明の保護が不要であると考えることもあるだろう。しかし、ビジネス上の競争が熾烈になれば、発明の保護の必要性はより緊急のものとなる。
特許は、それが存在する国内で、関連するビジネスを強力にサポートする。特許権は、その国で行われる特許権者の関連ビジネスの展開を助けサポートする排他的権利だからだ。すなわち、特許出願行為は、その国において競争を勝ち抜くための方法の一つと言える。
次に、ビジネス上の競争に関連してインドネシアでの日本企業の特許活動状況をみてみよう。
経団連会長・米倉弘昌氏、経団連評議員会議長・渡文明氏、その他多くの日本企業トップレベルの要人が、2011年2月中旬にインドネシアを訪問された。日本からの代表は、中国経済の影響から自由なインドネシアとの長年にわたる友好関係をこれからも維持し、インドネシアを戦略的な経済協力相手とみなすとの表明をされた。17)
インドネシアには約1,000社の日本企業があり、そこでは約30万人のインドネシア人が働いている。
インドネシアにとって日本は古くからの友人である。歴史的に、日本とインドネシアは、貿易、社会・文化的な交流を深く行ってきた。日本-インドネシア間の貿易量は、隣接するシンガポールやマレーシアよりも多い。しかし、日本からインドネシアへの特許出願数は、その事実を反映していない。
シンガポールおよびマレーシアと比較すると、人口で世界第4位のこの国への日本からの特許出願は少ない。インドネシアでは、人口比で100万人当たりたった5件の日本の特許権があるだけだ。都市国家であるシンガポールではそれが250件となり、マレーシアでも32件となっている。18)
インドネシアは、アジア地域において日本の最大級の貿易相手国であるにもかかわらず、少なくとも統計データ的には、日本企業はインドネシアでの知財保護に熱心ではない。インドは、対日本貿易量がインドネシアに比べて1/3であり、日本からインドへの貿易量は日本からインドネシアへの貿易量の2/3であり、インドの一人当たりGDPがインドネシアの半分以下であるのに、日本からの特許出願件数はインドネシアの3倍もある。19)
インドネシアにおける日本の製品やビジネスの利益は中国のそれらと直接に競合しているのであるが、特許に関しては、日本は中国にばかり注力しインドネシアは軽視してきている。20)
インドネシアでは、中国が日本にとっての最強の競争相手だ。
インドネシアは、他のASEAN9カ国とともに2015年に統一ASEAN市場を構築しようとしているのみならず、すでに二国間自由貿易協定を2010年に中国と結び(ASEAN-China Free Trade Area)、またインドとも結んでいる(AIFTA、2010年)。特に現在は、ACFTAがインドネシア市場に強い影響を与えている。
中国の温家宝首相が、戦略的二国間協力と経済協調を促進させるために2011年4月末にインドネシアを訪問された。21)中国とインドネシアとの間で締結されたACFTAが2010年に始まって以来、インドネシアの対中国貿易量は新記録状態となった。2010年には55%伸びて、その年の貿易量は対日貿易量よりも38%も大きくなった。
インドネシアへの外国直接投資(FDI)を中国と日本とで比較すれば、2010年の中国からのFDI値は依然として日本より相当に低いようだ。22)しかし、中国からの投資は前年比で265%増加しており、一方、日本からの投資はほとんど増加しなかった。中国の代表団は、前回の訪問時にインドネシアに対する直接投資を増加させることを約束し、それは将来的に、中国の製造活動とサービス活動とがインドネシアでより活発化することを意味している。23)
日中両国は、インドネシアにおいて有利な点と不利な点をそれぞれ有している。中国が有利なのは、ほとんどの場合その低価格性だ。しかし、経験的には、その有利性は長くは続かなかった。消費者はやがて、品質、安全性、パフォーマンス、信頼性などに着目するようになったからだ。
品質、安全性、機能性、信頼性、そして技術力は、日本製品の優越性を構成する要素となる。中国と比較した場合の日本の優越は、より良い製品品質とより高い製品技術のイメージからもたらされている。そして、製品の品質と製品に化体した技術力は特許に関係している。これが、日本企業がインドネシアで特許出願をすることで優越を維持することが必要な理由となる。
7. ホンダ対中国製モーターバイク
海外で特許出願をする際に最も骨が折れ、同時に最も重要なもののひとつに、当該国の言語に特許明細書を翻訳する作業がある。特許翻訳は、特許明細書の翻訳文が原語で記載された発明を間違いなく表現していなければならないので、大変に重要だ。
誤訳は、元の発明と異なる新しい発明を創造してしまいかねない。そして誤訳は、特許権の有効期間が20年であるので、それだけ長い悪影響を特許権者に与えることになる。すなわち、今であれ将来であれ、誤訳は特許権者のビジネスに負のインパクトを与える。以下に説明するホンダのケースのように。
海外からインドネシアで特許出願をする際には、全ての書類はインドネシア語に翻訳されなければならず、同時にその英語版も添付する必要がある。もし、それが日本のものであっても、書類は英語とインドネシア語とで必要になる。日本語の書類は添付されない。ほとんどの書類は、日本語原文ではなく英語版に基づいてインドネシア語に翻訳される。すなわち、日本語→英語→インドネシア語と翻訳されていく。
もし、翻訳ミスが日本語→英語のところで生じたなら、それは英語→インドネシア語の翻訳作業にも引き継がれることになる。
特許による保護の範囲は、まず主として特許クレームに基づいて決定される。したがって、もしクレームが正しく翻訳されなければ、その発明は保護されなくなる。
次のホンダのケースは、インドネシアの特許実務家の間でよく知られたケースで、少し古いが、特許明細書、特にクレームが正しく翻訳されることがいかに重要かを如実に教えてくれる。24)
本件の書誌的事項:
出願日: 26/03/1985
優先日: 16/03/1984
優先権主張: 59-058763
特許番号: ID 0 000 284
発明の名称: 内燃機関のデコンプ装置 (Peralatan dekompresi untuk motor pembakaran dalam)
出願人: 本田技研工業株式会社
A(インドネシア語への翻訳に使用された英語クレーム)
1.正転方向に回転可能なクランクシャフトを含む少なくとも1つのシリンダーと前記シリンダー内の燃焼室内に突出可能なバルブとを有する4サイクル内燃機関のデコンプ装置であって、
クランクシャフトの正転時には非作動状態になり反転時には作動状態になるバルブ駆動手段を備え、
前記バルブ駆動手段は、前記内燃機関が再始動した後の前記ピストンの第2圧縮工程が始まるまでに、前記クランクシャフトの回転角度位置と無関係に前記バルブを開くよう前記作動状態にあり、さらに前記バルブを前記バルブ駆動手段から開放するように前記作動状態から前記非作動状態へとシフトすることを特徴とする4サイクル内燃機関のデコンプ装置。
B(インドネシア語へと翻訳されたクレーム)
1.正転方向に回転可能なクランクシャフトを含む少なくとも1つのシリンダーと前記シリンダー内の燃焼室内に突出可能なバルブとを有する4サイクル内燃機関のデコンプ装置であって、
前記クランクシャフトを正転させる非作動状態になり、前記クランクシャフトを反転させる作動状態になるバルブ駆動手段を備え、
前記バルブ駆動手段は、前記内燃機関が再始動した後の前記ピストンの第2圧縮工程が始まるまでに、前記クランクシャフトの回転角度位置と無関係に前記バルブを開くよう前記作動状態にあり、さらに前記バルブ駆動手段からの影響を制限するために前記バルブを駆動するよう前記作動状態から前記非作動状態へと変わることを特徴とする4サイクル内燃機関のデコンプ装置。
(訳者注:インドネシア語版クレームが翻訳の繰り返しの結果であるだけでなく、この稿の表現もさらに翻訳を繰り返した結果であり、正確に原著者の意図を反映できていないかもしれません。)
上の英語版クレーム(A)からインドネシア語に翻訳されたインドネシア語版クレーム(B)は、多くの誤訳を含んでいる。その誤訳によって、発明のポイントが変ってしまっているのだ。
たとえば、インドネシア語版クレームでは、バルブ駆動手段があたかもクランクシャフトを正転させたり反転させたりするかのように表現されている。また、前記バルブ駆動手段からの影響を制限するためにバルブ駆動手段が前記バルブを駆動するような定義になっている。
インドネシア語版クレームから、我々はデコンプ装置の機能を誤って理解することになるだけでなく、それ以上に重要なことだが、本来クレームされ保護されなければならない発明を失ってしまっているのだ。
上の例は、1984年に日本で最初に出願され、優先権を伴って1985年にインドネシアで出願されたものだ。中国でも同様に出願された。当該特許権の存続期間は、インドネシアでは2005年に満了した(出願から20年)。一方、当時の中国の特許法により、中国では2000年に満了した(出願から15年)。
中国での特許権消滅の後、その発明を実施したオートバイが中国の会社により大量に製造され、海外にも輸出された。これにより、2000年には、当該発明にかかる技術が使われた中国製の安価なオートバイが洪水のようにインドネシアに入ってきた。
この中国製の安いオートバイの輸入はインドネシアのオートバイ市場にとって大変強いインパクトを与え、これにより、日本製品のブランド力は中国製品に脅かされることとなった。
その中国製オートバイがインドネシアに輸入されていた当時、ホンダの特許権はインドネシアでは生きていた。
インドネシアの特許法によれば、特許発明にかかる製品の販売、輸入、貸渡、または販売もしくは貸渡のために配達もしくは準備をする行為は特許権侵害となる。したがって、当該中国製品を輸入したり販売したりする行為はインドネシアの特許法において特許権侵害となる。
さて、当該日本企業は、中国からインドネシアにやってきた製品の輸入や販売に関して訴訟をおこし、そこで勝訴することができたのだろうか?
答は否であった。
特許による保護は主としてクレームに拠る。したがって、ホンダのインドネシア特許のクレーム(B)に依存する。しかし、ホンダのインドネシア特許のクレーム(B)は、誤訳によって技術的にまったく意味を成さない状態になっていたのだった。
結果として、インドネシアに輸入された中国製オートバイに使われていた技術は、インドネシアのどの特許権をも侵害しない状態となったのだ。これにより、誤訳が原因でホンダは市場シェアを失うことになった。
この例から次のことが言える。
1) 特許明細書、とりわけそのクレームの翻訳は注意深くなされなければならない。特許の保護範囲はクレームに基づいて決定されるからだ。
2) 現地代理人は、クレームの技術的な文脈を理解する能力を有している必要がある。そうすることで特許明細書は適切に扱われる。
3) 現地代理人は、クレームの翻訳文をしっかりと見直す必要がある。そうすることで翻訳の正確性が担保できるようになる。
4) 出願人は、現地代理人に翻訳と見直しのために十分な時間を与える必要がある。
5) オリジナルである日本語から英語への翻訳も、それがさらに別の言語への翻訳の際のベースになるのだから完璧でなければならない。
8.まとめ
日本企業はインドネシアでもっと特許をとるべきである。
インドネシアの現在および将来の経済的・商業的指標は、日本にとっても中国にとってもインドネシアがビジネス的に避けて通れない国であることを示している。経団連会長と経団連評議員会議長の2011年2月のインドネシア訪問と、中国首相の2011年4月のインドネシア訪問とが、その結果であるとも言えよう。
日本にとって過去の蓄積より重要なことは、インドネシアにおける現在進行中の競争と将来の競争である。
日本と異なり、中国はACFTAに積極的である。中国は、その豊富な投資資金を背景に、短期間に市場を制覇し競争相手を駆逐する強大なパワーを持っている。ACFTAの最初の年度において、中国のインドネシアとの二国間貿易量は、日本が長期にわたって築き上げてきた二国間貿易量を凌駕してみせた。
中国の対インドネシア二国間貿易量はこれからますます増大していくものと予測されている。一方、日本経済は沈滞したままだ。
中国とインドネシアの二国間貿易量だけが急速に成長しているのではない。インドネシアにおける中国の直接投資(FDI)も増大している。
そのように国家間のパワーバランスが変化していく中で、日本企業は、インドネシアで特許をとっていなければ、他者により海外で製造された製品のインドネシアへの輸入、他者によるインドネシア内での製造・販売を止めることはできない。
もし、日本企業が中国とインドにおいて自らの発明を保護する重要な理由を有しているのであれば、その理由はそのままインドネシアにも適用されるべきであり、その重要性と緊急性は高まっているといえよう。
中国製品との競争において、日本製品は、品質、安全性、機能性、信頼性および技術力において勝っており、それは多くの発明によって支えられているものだ。日本企業はそれらの優位性を、インドネシア市場に踏みとどまるため、そしてインドネシア市場で競争相手を排除するために利用することが可能である。
インドネシアにおける特許出願は決して高くない。市場の喪失や信用の失墜による経済的損失に比べれば安いものだ。
日本企業が、実は世界規模でみて極めて重要なインドネシア市場で、特許を有効活用し、質のよい特許権を多く獲得して、競争に打ち勝っていくことに期待したい。
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(英語タイトル:Japanese Corporate Patent Strategy In Indonesia -- Is It Appropriate?)
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